Talk about 3 田中昭史

岡村さんのこと  田中昭史

 「どお 元気? 飯でも食おうよ」 岡村さんと知り合ってから数十年、今でも繰り返される電話の第一声である。「どこで何時にしましょうか?」と私。「そんじゃさぁ3時に六本木のVIVIにしようよ」。その当時、午後の3時といえばまだ会社の勤務時間中である。打ち合わせと称して会社を抜け出しVIVIへ急ぐ。まずサウナで汗を流してさっぱりしてから飲みに行く、いつものパターンだ。岡村さんの会社は、一応ニコンの仕事はしていたが、その頃の私は担当をとっくに外れていたのである。「あぁ今頃サラリーマン諸氏は仕事をしているのだなぁ」と少しばかりの後ろめたさと大きな幸せを感じつつゆったりと風呂に浸かっているのであった。  
 今日はどこに連れていってくれるのだろうか、と期待に胸を膨らませつつ2時間ほどサウナで過ごして六本木の中心に繰り出す。鮨屋で腹ごしらえをして行きつけのクラブへ。岡村さんのお目当てはママ。銀座、六本木といくつか行きつけのクラブに連れて行ってもらったが、その共通項はママが美人で岡村さんと親しいということで、少しばかりの嫉妬心をいだきつつ美味しいお酒を頂く日々であった。  そんなお付き合いばかりしていたためか、その当時岡村さんが作品を制作することなど全く考えも浮かばなかった。もっとも、その頃の岡村さんは仕事が忙しくてそれどころではなかったのかもしれない。
いつごろから絵の制作を始めたのか私にはわからないが、ある日会社へ行ったら部屋の一角を仕切ってアトリエとなっていたのである。岡村さんは、事務所の引っ越しを趣味としているのか、結構頻繁に移転していた。今思うと移転するたびにアトリエのスペースが広くなっていったようだ。そして現在は、完全に仕事場とアトリエの場所を分け作品制作だけに没頭している毎日である。
 そこまで制作に打ち込む源は何であろうか。もちろん岡村さんは美術系の教育を受けているわけだが、それ以上に親しい仲間二人の存在が大きかったのではないだろうか。その一人は上村一夫 ―『同棲時代』で一世を風靡した劇画家である。いま一人は山村雅昭 ― 全く新しい表現方法で植物の世界を引き出した写真家である。岡村さんと合わせて“三村”と称していつも一緒につるんで飲んでいたようだ。時に私も参加して楽しい時間を共有させていただいた。この二人の活躍が今の岡村さんの原動力となっているのではないか。そのことは本人に確かめたわけではないが、それほど外れてはいないと思う。
 しかし、その関係も1986年上村一夫が45歳で癌で亡くなり、続いて1987年山村雅昭が47歳で自死してしまったことで途切れてしまう。最も親しかった友人二人を続けて亡くしたことは、岡村昭和にとって大きな痛手で、その穴埋めをするためには創作活動をしていくしかなかったのではないだろうか。
 上村、山村の両氏が遺した作品は、それぞれの分野で確実に後世に残っていくと思う。今現在の岡村さんが創作に打ち込んでいる姿は、おそらくこの二人に続いて自身の痕跡を作品に残していきたいという強い意識の現れではないかと思われる。それが達成された時、また“三村”の新たな関係が生まれることだろう。

作品 田中昭史(タナカ・アキフミ)
■1948 年 秩父市生まれ。71年信州大学工学部卒業。同年 日本光学工業(株)(現(株)ニコン)入社。76年東京綜合写真専門学校卒業。2015年退社。この間28年間にわたりニコンサロンを担当。 業務のかたわら写真作品を発表。「多摩景」「秩父巡礼行1990-1998」を銀座・大阪ニコンサロンで開催。以後 個展・グループ展を日本・韓国・米国等で多数開催。写真集に『多摩景』がある。現在 武蔵野美術大学非常勤講師。