
岡村昭和は私の義父にあたる。そして私の妻は岡村にどことなく似ている。当たり前である。娘である。そして私たち夫婦には二人の息子がいる。岡村の孫である。この二人の子供もどことなく岡村に似ている。私はこうして日々、「岡村昭和」的なるものに囲まれて生きている。
私の妻に父親のことを語らせるといつも「お父さんは芸術的で感性的な人。尊敬はしているが、とっても危なっかしい人、家族にはいつも心配をかけていた」という話になる。そして妻はこの心配をかける現象を「太郎的」と呼ぶ。そう岡本太郎のような突拍子もない行動をするというのである。
以前、妻からこんな話を聞いた。岡村は家族を東京に残して単身ヨーロッパに渡り画家になろうとしたことがあったそうだ。それも家族には黙って。それは家出である。失踪になるかもしれない。直前で思いとどまったらしいが、もしそのとき日本を脱出していたら、いまどんな芸術家になっていたのか、ちょっと会ってみたい気もする。ただ、岡村は悩んだ末、東京でデザインの仕事をすることに決めたのだと思う。広告の世界で自分を表現しながら、家族と暮らす道を選んだのだと思う。そのとき、アーティストになる夢は胸のポケットにそっとしまい込んだわけだ。
若かかりし頃の青い夢は、そのまま墓まで持参してしまうものである。あるいは、日々に忙殺されて夢を抱いていたことすら忘れてしまうものである。ところが岡村は、アーティストになる希望を捨てたことはなかった。そしてもう一度、胸のポケットから取り出した、古ぼけた青い包み紙を広げたのだ。
家族は「ああ、また太郎的なことがはじまった」と思ったに違いない。
あるとき岡村の家に行くと、机の上にラジオとNHKラジオ英会話のテキストが置いてあった。岡村に理由を聞くと、これから英語をマスターしてニューヨークに移住してアーティストになるという。東京じゃあダメでやっぱり世界の芸術の中心、ニューヨークで勝負するという。世界的なアートビジネスにならないとダメだという。まさに太郎的である。
そこから怒涛のように創作活動がはじまり、何度かニューヨークで個展を開くことになる。私も帯同したのだが、岡村は米国人を相手につたないNHKラジオ英会話力で自分の作品を売り込んでいく。その後9.11のテロもあり結局ニューヨーク移住は実現しなかったが、活動拠点は東京でも岡村は常に世界を意識していた。
岡村の作品についても少し触れたいと思う。岡村のすべての作品を通じて言えるのは、その2次元性である。パースペクティブの否定。それは岡村の持つ絵画表現のアイデンティティなのだと思う。そういえば一時ポール・ジャクレーの版画をコレクションしていたことがあった。あるいはマティスの切り絵を好んで部屋に飾っていた。外国人の視線を通して日本の美しさを再発見していたのかもしれない。あるいは、もっと自分の心の奥深い問題、若くしてこの世を去った親友であり天才である漫画家、上村一夫が描いた2次元の世界への畏敬なのかもしれない。特に和紙とゼロックスの組み合わせで実現したモノトーンの切り絵には上村一夫のベタを感じずにはいられない。
岡村の作品に漂うもうひとつの気配は、エロチシズムである。それはバルテュスのような怪しさでもなく、エゴンシーレの激しさでもなく、クリムトのような美しさでもない。ヌードという直接的なモチーフやストレートな性的表現ではなく、人間の内面から沸きあがる岡村流のエロス。たとえばそれは手の触感を通じてようやく脳で理解できるようなもの。いまっぽい言葉を借りれば「着エロ」。服を着ていなければ感じることができないエロという何か。要するに岡村は一筋縄ではいかないエロじじいなのである。家族から見れば「太郎的」としかいいようがないのである。
岡村のアーティストとしての活動が社会にどのように受け入れられるのか。本人は世界的な評価を目指していると思うが、私はそんなことはどうでもいいと思っている。岡村の中から湧き上がるエネルギーがキャンバスにのり移ってさえいれば。その前向きで創作への希望を捨てない戦いは、同種のエネルギーを持つものには必ず伝わる何かがあるからだ。そしてその何かは「太郎的」なものをはるかに超えて確固たる「岡村昭和的」なものになるはずである。
家族代表